2016年01月01日
一遍上人に思いをはせ
謎の万歳ルートを歩く
新宮市

 「謎の万歳(ばんぜ)ルート」とも呼ばれる新宮市熊野川町の一遍上人(いっぺんしょうにん)六字名号碑から志古の貝持島(かいもちじま)までの約3・3㌔をこの古道を修復した語り部の一人、小山益生さんの案内で、熊野歴史研究会メンバーと一緒に歩いた。道上にある石碑や地蔵などを紹介する。

 時宗(じしゅう)の開祖、一遍上人(1239―89年)は、熊野権現から神託を受けて悟りを開き、貴族など上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広めた名僧として知られている。生涯自分の寺を持たず、臨終の際、一切の記録や経典を焼き捨て、南は九州から北は奥羽まで遊行したという。

■一遍上人名号碑



 1280(弘安3)年の建立といわれる一遍上人名号碑。砂岩に流麗な書体で「南無阿弥陀仏」と彫られていて、一遍上人が自ら書き、彫ったという記録が残っている。碑は途中で折れてしまったため、1760(宝暦10)年に時宗52世の他阿一海(たあいっかい)が地元日足村(現在の新宮市熊野川町日足)の住民の助力で修復したと外枠の石に刻まれている。1969(昭和44)年7月14日に和歌山県指定史跡になっている。

■桜地蔵(さくらじぞう)



 一遍上人名号碑の右隣に建つのは桜地蔵。1591(天正19)年に江州(ごうしゅう=現在の滋賀県)、飯道寺(はんどうじ)の宝蔵坊(ほうぞうぼう)が、生前中に死後の冥福を祈り建立したという。飯道寺は飯道山(はんどうさん)にある当山派(とうざんは)修験(真言宗系)の先達寺院。熊野速玉大社の勧進(かんじん)と修復を担った新宮本願寺院に入寺して支配しているので、その関係が伺われる。地元ではこの付近を千人塚、千人原とも呼んでいて、平家の落ち武者伝説や後南朝の戦いの戦死者たちの供養との関係があるとの説もある。1983(昭和58)年4月1日に新宮市指定史跡となっている。

 ちなみに傍らの桜の木は、弘法大師がここで杖を立てかけて休んでいたところ、芽が出て大木になったという伝説がある。

■磨崖(まがい)



 一遍上人名号碑を1827(文政10)年に時宗56世が模写して刻んだ磨崖。石に刻まれている銘文によると、一遍上人が書いた名号碑は、草書体と行書体の2基あったが、破損したため時宗52世が補修。しかし、再び壊れたため、模写したのがこの磨崖碑であるという。1983(昭和58)年4月1日に新宮市指定文化財となっている。

■その他



 今回歩いたルート上には、上部が破損し、「阿弥陀仏」と書かれた部分が残る「六字名号碑」もある。志古炭鉱跡があり、今でも石炭片が落ちていて、「炭竈(すみがま)」という地名も残っている。

 ここから熊野本宮大社へ向かうルートには「首なし地蔵」と呼ばれる南北朝時代のものと思われる壊れた宝篋印塔(ほうきょういんとう)、線刻画のある「椎ノ木地蔵」などもある。

■調査報告会での声



 古道を歩いた後に調査報告会があった。会員たちから「中世の遺跡がいくつもある大事な道として再評価すべき」「中世の熊野古道は分からない。今あるのは、江戸時代の古道」「もっと調査していくべき。謎の多い道」などの意見が出た。小山さんは「探せばまだ道が出てくる」と話していた。

 熊野歴史研究会は本年度中に『熊野参詣道調査報告書』を刊行する予定で、その中に今回のルートについての調査研究も掲載する。

(2016年1月1日付紙面より)


一遍上人名号碑
桜地蔵
一遍上人名号修復磨崖碑残欠(仮称)
磨崖
熊野川沿いの貝持島